海と空と針槐 > ご近所瓦版 > 海辺に佇む美しき廃虚(2/6) 魚雷発射試験所跡  
   

 

 

ちいさな岬の秘密基地:東彼杵郡川棚町三越郷

川棚町三越郷片島遠景明治19年(1886)、長崎の県北の一寒村であった佐世保浦が軍港に指定され、明治23年(1890)には本格的に港湾施設が整備された。まもなく佐世保海軍工廠が開設され、この後に始まった日清戦争の主力艦隊はこの佐世保海軍基地から発進した。
そして大正7年、佐世保海軍工廠で製造された魚雷を実地で試験発射するための極秘施設として、ここ川棚町の一画に「魚形水雷発射試験場」が開設された。

魚雷発射試験場遠景 現在は「魚雷発射試験場」と呼ばれているこの施設は、川棚町三越郷片島(みつごえごうかたしま)の海に囲まれた岬の先端近くに位置する。
この試験場から西彼半島北岸の小さな二つの島の中間を発射目標として発射試験が繰り返されたと言われているが、町民はもとより軍人にさえもその存在はひた隠しにされていたことから詳しい資料はほとんど残っていない。かつて魚雷の発射試験中に、軌道を逸れた魚雷が対岸の海岸に突入してしまい、川棚の秘密基地の存在さえ知らない人々を驚かせ、大騒動になったという話が今に伝えられている。
昭和17年には、さらに川棚町数石郷(すしきごう)古浜から百津郷(ももつごう)塩浜一帯が広範囲に埋め立てられて佐世保海軍工廠分工場が設置され、翌年には川棚海軍工廠として独立した。川棚海水浴場として子供たちに愛され続けてきた美しい海岸が消え、古の時代から「千年の平和郷」を誇った川棚は、こうして戦争に呑み込まれていった。

 

もの言わぬ遺跡

戦後はそのまま放置されたのか、それとも、なんらかの形で利用されたのか・・・いずれにしても、今は朽ち果てるのを待つばかりの状態でひっそりとここに佇んでいる。
←写真の右手の塔は魚雷発射監視所跡(発射試験と監視をしていたと言われている)。左手の建物は「魚雷収蔵施設」。そこからさらに沖合いに道が伸びて岬の右手の「もうひとつの発射試験場(らしいが確かな資料がない)」へと続いている。丘の上には軌道を測定するための望楼跡もある。
軍が去り、人が去り、秘密だけがここにとどまったのかもしれない。日本中が戦った戦争から60年を越える歳月を経た今、広く知られることもなく、釣り客と、戦後ずっとボランティアで周囲の清掃や草むしりを続けているお年寄りたちがたまに訪れるばかりだ。早朝や夕暮れには近くの漁港の船が行き交う。

私がこの町に越してきて8年が過ぎたが、これまで地元の方たちの口から魚雷発射試験場の名を聞くことはあっても、それが遺っていることは聞いていなかったように思う。だが、つい最近まで知らなかったものの、私は試験場手前の三越漁港近くにあった漁師さんたちのたまり場の「魚来亭(ぎょらいてい)」という居酒屋に何度か通っていた。今になってその名の由来を納得しつつ、2003年末をもって閉店してしまった「魚来亭」へも思いを馳せてしまう。
三越漁港は、かつては海軍払い下げの駆逐艦「かば」を波止場として転用していたというちょっと珍しい歴史も持っている。これについても、いつか詳しく聞いてみたいものだ。


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