海と空と針槐 > ご近所瓦版 > 海辺に佇む美しき廃虚(6/6) 川棚魚雷艇訓練所  
   


知られざるもうひとつの特攻隊

川棚魚雷艇特攻隊

太平洋戦争の終わり頃の昭和19年、魚雷発射試験場がある三越郷に隣接した小串(おぐし)郷から新谷(しんがえ)郷にかけて、かつて数万人の十代の若者が特攻隊として苛酷な訓練を受けていた「川棚臨時魚雷艇訓練所」が急設された。小さな漁村の町の一角の魚雷艇訓練所には多くの若者が志願して集まり、鉄の不足と油の枯渇で乗る飛行機がなくなった海軍飛行予科練習生も多くやって来たという。
特攻隊と言えば誰もが“神風特攻隊”を思い浮かべるだろうが、ここ川棚に在ったのは海軍の水上特攻機としての魚雷艇乗員訓練基地だった。川棚で主に訓練されたのは“震洋(しんよう)艇”と呼ばれ、1〜2人乗りのかなり粗末なベニヤ板製のモーターボートで、後部に爆雷を積んだ。長崎大学の学生さんが集めた当事者のインタビューの中で『飛行機に乗ることが夢だったので、「あら?」という感じだった。初めて飛行靴でベニア板の上に乗った時はちょっと悲しかった。』というコメントが強く印象に残っている。他にもかつて「人間機雷」と呼ばれた簡易潜水器を装着して5m程の竹竿の先につけた棒機雷を武器とした“伏竜”、「人間魚雷」と呼ばれた“回天”の訓練も行われた。
特攻殉国の碑 こうして多くの若者が命を賭して戦ったが、戦争から半世紀を越える歳月を経た今、“魚雷艇特攻隊”は歴史の表舞台で語られることもなく、日本はおろか長崎県内でさえその存在が知られていないのが現状だ。常時500人を越える予備学生が訓練の日々を過ごした広大な魚雷艇訓練所跡も、新谷郷にあった海軍官舎跡も今は宅地や畑にとって代わり、震洋艇を繁留した木製桟橋の突端のコンクリート礎石や訓練所付属病院の跡地に今も残る煉瓦塀(川棚町小串郷駅近く)くらいのものだ。(写真は近く公開予定)


特攻殉国の碑

魚雷艇特攻隊で命を落とした方たちを奉る特攻殉国の碑(新谷郷)に今回改めて足を運ぶことになる迄は、私も神風特攻隊の所縁の地なのだと思い込んでいた。そもそも、どうしてこんな田舎の静かな海で?
かつて訓練のための水雷学校は神奈川県横須賀市にあったが、大型船舶の行き来が多く訓練が思うようにできなかったという。そこで分校として選ばれたのが当時は小さな漁村の町だった川棚。広くて波が穏やかな大村湾には訓練の支障になる大型船舶の行き来がほとんどないからだとのことだった。慰霊碑の前には今も穏やかな大村湾の海が広がっている

 

特攻殉国の碑の裏面に書かれた碑文

碑文『昭和十九年 日々悪化する太平洋戦争の戦局を挽回するため日本海軍は臨時魚雷艇訓練所を横須賀からこの地長崎県川棚町小串郷に移し魚雷艇隊の訓練を行った。
魚雷艇は魚雷攻撃を主とする高速艇でペリリュー島の攻撃、硫黄島最後の撤収作戦等太平洋、印度洋において活躍した。更にこの訓練所は急迫した戦局に処して全国から自ら志願して集まった数万の若人を訓練して震洋特別攻撃隊、伏竜特別攻撃隊を編成し、また回天、蛟竜などの特攻隊員の練成を行った。
震洋特別攻撃隊は爆薬を装着して敵艦に体当りする木造の小型高速艇で七千隻が西太平洋全域に配備され、比国コレヒドール島沖で米国艦船四隻を撃破したほか、沖縄でも最も困難な状況のもとに敵の厳重なる警戒を突破して特別攻撃を敢行した。伏竜特別攻撃隊は単身潜水し水中から攻撃する特攻隊で、この地で訓練に励んだ。
今日焼土から蘇生した日本の復興と平和の姿を見るとき これひとえに卿等殉国の英霊の加護によるものと我等は景仰する。ここに戦跡地コレヒドールと沖縄の石を併せて、ゆかりのこの地に特攻殉国の碑を建立し、遠く南海の果に若き生命を惜しみなく捧げられた卿等の崇高なる遺業をとこしえに顕彰する。/昭和42年5月27日 有志一同 元隊員一同』

*毎年、5月に慰霊祭、8月に献灯祭が行われている。


2004年11月に入って、ちらほらと魚雷発射試験場の取り壊しの声が聞かれるようになりました。
この貴重な遺跡を残すためにあなたの声を聞かせてください
アンケートはこちら


参考資料 川棚町郷土誌(平成十四年 川棚町教育委員会編集 川棚町発行 )
関連サイト:

Shinkawa Photo Gallery
 このコーナーに写真を提供してくださっている新川氏による魚雷発射試験場の美しい 写真が見られます

かわたな 知られざる特攻艇(こども用ページはこちら
 長崎大学の学生さん(取材当時)によるレポートです
特攻殉国の碑(川棚魚雷艇訓練所跡)
 長崎大学教育学部 社会科教育学の福田研究室によるレポートです
川棚町のホームページ


ご近所瓦版TOPへ